明治維新と小糸町、文明開化の荒波(小糸町史より)

  長い間徳川の治世のもと、古い池の水のように変化もなく沈滞しきっていた山間の村の人々にとって、ここ数年の動きは総てただ驚く
ことは゛かりであった。何百年、何千年、富士の山の様にどっしりと変わる事はあるまいと思われた徳川の幕府も忽ちに倒れてしまった
今、そこは東京と改称されて若い天子が新しい日本の権威としておいでになる。永い間二本差した武士達の顎で使う器械にすぎなか
った百姓達も、乗馬も出来る、領主が通ろうが大名のおいでだろうが、もう土下座の必要もなくなった、男はチョンマゲを切ってざん切り
頭だ、もう士族だって刀を差して歩かない四、五年前亡くなった爺さん婆さんに聴かせたらまるで信じられないだろうと思われる程の
変化である。今日の新は明日の旧である、最も新しくて最も古い太陽が明日の朝に何を用意しているのか、誰にも見当の付かないのが
この一、二年だった、みんな希望に満ちていた、鼻息も荒い。そんな村の空気をいっぺんにを吹き飛ばす通達が、次々に大政官から
発せられたのもこの明治初期である。次ぎに主なものをあげると。(太政官とは
①明治5年・太陰暦から太陽暦に ②明治4年貨幣法規・円の誕生 ③名主より戸長へ ④育児告諭 ⑤増税・地券、地価、地租法制
⑥明治5年学制頒布・小学校設立・・・・等々、その後幾多の変遷をみて現代に引き継がれているものである。
 先ず、⑤の地券、地価、地租については、徳川時代には合法的な土地所有権は完全に武士階級に握られ、それが経済上最も重要
なものであっただけに、これを確保せんが為に色々な方法がとられていた、最も露骨なものといえば寛永十二年に下された土地永代
売買禁止の令で、次のように言っている、生産に豊かなる百姓は田畑を買い取り弥々豊かに、生産に乏しきものは田畑を売却し弥々
乏しきを以て、然るに今後田畑永代の売買は停止たるべき。とある、表面上から見れば慈悲深く行き届いたものと言えようが、実際の
百姓に対する真意はごまの油で絞れば絞る程出る税金取り立ての道具でいかにして税源を確保するかが問題だったのである。
武士階級の経済的優位を守りつつ徳川氏自身の安全を擁護せんが為の方便に過ぎなかった面が多分にあるのである。この事は
土地兼併の発生せぬだろうと思われる市街地の土地についての売買は以前通り許されていたのでも明らかである。
 明治五年正月田畑永代売買禁止の令が解除され自由に売買出来る事となったのであるが、売買登記を行う事となり、その際地券
を下附する事となり、地券発行地租収納規則を施行する事となったのである。その概要は概ね次の様なものであった。
①地券 従来の武家地等で官に納めたものを払い下げ、新土地所有者に地券を交付して、兼ねて課税の標準とする。
②地価 地券に記載されている土地の価格。 ③ 地租 地券による地価の百分の二を以て其の率とし、外に庁費として税金に付
三銭を賦課する(後五年四月地価の百分の一に改む) 以上の様であって、ここに法規の上に明瞭に土地の所有権が認められ
これが地券によって確証され収税単位も収量中心でなく、反別中心の地価を以てする事になったのである。
 明治四年七月廃藩置県に至り、地租の負担が農民のみに偏していたものを漸次平均に国民の負担になるようにしていった
藩政をやめ郡県制を施くに至り、全国画一の政令の下に、中央集権の実を得るのは、従来のような米納制度を整理統一して金納制度
を取るという事であった。

こいと発見にもどる

COPYRIGHT(C) 一般社団法人 こいと ALL RIGHTS RESERVED