明治維新と小糸町、学制発頒布小学校設立(小糸町史より)

 明治五年上諭[学制頒布ニツキ仰出書]の最終章には「邑ニ不学ノ徒ナク、家ニ不学ノ人ナカラン事ヲ期ス」とあって、明治維新の教育
は封建的身分支配の撤廃と四民平等の自由への前進とに呼応して平等自由の教育を目指したものである。
 明治五年八月二日学制が頒布された、この学制とは、全国を八大区に分け、各大学区に一大学を置き、各大学区を三十二中学区に
分け、各区に一中学を設け、その下に二百十小学区を設けるようになっていた、これによると全国で八大学、二百五十六中学、五万三千
七百六十小学校となる勘定で、大学・中学・小学の整然たる三段階制で、フランスの学区制を模倣したものであった。
これによると旧小糸村は次の様に区分されていた。
第二十一中学区第九五番小学区・根本・大谷・長石・法木・行馬  第二十一中学区第九六番小学区・山木・深井・長谷堂・大月・森戸・
庶子先・金岡・沢巻  第二十一中学区第二番小学区・鎌滝・高原・長和田・荻作・駒久保  第二十一中学区第九七番小学区・大野台
日渡根・猪原・となるが、学制は布かれたが何一つ財政上の裏付けはない、しかしどんな犠牲を払ってでも、自分達の子供に学問を
させたい--という気持ちはいつの世、どの親も同じである。こういう親達のぬきさしならぬ願いを逆手にとって、学校設置の義務を村民
に押し付けたのが明治政府であった。
 太政官より出された「被仰出書」には必ず「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」とあるものの、学校建築時の寄附
や労役奉仕その運営などもすべて住民の負担で行われた、そのため農家の座敷やお寺などを利用し、手を加え学のある人を捜して
学校を起こす外に方法はなかった。学校建築には膨大な経費と労力をともない、村税の何倍も負担したり又労力奉仕をするなどその
苦労を思わせる文書が多く残っている。
 明治十一年二月、根本、庶子崎二校を合併して、大井戸小学校とした、この時使用したのは万福寺であった。明治十六年には根本村
和田に根本小学校が建てられた、前庭には大きな海棠の木があり、並んで桜の木もあって、晴れた日には秀麗な富士が見え、南には
小糸の原を隔てて鹿野山が仰がれた、裏には何本もの梅の古木があって二月三月は風もかぐわしく、まことに勉学にはよい環境で
あった。この校舎から後に大学教授、勲三等、となった久保進及び谷中百十郎(後の木原)が出ている。
 籾山小学校は明治六年十月に籾山村大宮寺を仮校舎として授業を始めた、これは三つの小学校の併合によるもので、正式には
第九四番、第百四番、第百五番併合籾山小学校と称した。最初の教師は元鶴舞藩の井上明斉で、教師はこの人一人で大宮寺の
住職や、斉藤氏の教えを受けていた塾生の斉藤儀十郎などが助手を務めた。
 籾山小学校を卒業された佐藤善次郎氏の自叙伝に当時の思い出話しがある、生き生きとした叙述の中に当時を偲びつつ引用すると
[長じて村の籾山小学校に入学した、大宮寺という寺が仮校舎になっていた。生徒は悪い事をすると本尊様の部屋に入れられた、又、
石川五右衛門の芝居をして寺の釜の底を抜いた事もあったが、私も可なりいたずら坊のほうであった。あるとき、横浜、横須賀方向で
砲声が轟き大地が振動したことがある、当時は西南戦争の最中で友達は「西郷隆盛が攻めて来たのだろう」とというので、心配して
先生の所に行って聞いてみると、先生は笑いながら「あれは祝砲だ」という。何のことやら解らなかったが、先生が笑っているから
大丈夫だろうと思った事があった]等々であるが、叙述によると当時の就学率は五十パーセント程で殊に女子の就学率が少なかった
とある。

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