明治維新と小糸町(小糸町史より)

  慶応四年九月八日元号が明治と改められた、その前の月即ち八月八日紫宸殿にて即位された明治新帝はわずか十七才であらせら
れた。
 これより先、慶応三年十月将軍慶喜は大政を奉還し徳川八百万石は朝廷の領に帰した。
 慶応四年十月二十四日徳川慶喜が征夷大将軍の職を辞する事となり、大権は再び皇室に復帰した。
 奥羽の戦局も終わりを告げつつあり、徳川方の軍艦は蝦夷の地函館に脱出し、又、一手柄立て立身出世をと機会を伺い、会津若松
まで官軍と行を共にした村の若者、例えば深い村の大御大學のような人も時勢を悟って帰郷し帰農した。
 将軍慶喜の大政奉還と明治維新の日本国の激動は御存じの通りですが、千葉県及び上総地域の情勢は概略次のごとくであった。
 鎮台府は(鎮台とは)この地方の新しい長官として柴山文平(典とも言う)(柴山文平とは)を任命したのである、この頃はまだ県名は
なくて宮谷(みやざく)県と称したのである(宮谷県とは)。柴山文平(典)が知県事となって始めての仕事は徳川家脱藩の士、いわゆる
義軍の掃討であった。鎮台府日誌にその数多くの届出書があるが小糸に関する物の要点を抜くと、大鷲村妙姓寺の焼き討ちに関する
ものがある、小糸地方における義軍の暴挙については君津郡誌にも詳しくあるところですが、一つをとると、大鷲方面にしきりに義軍が 
出没し暴挙を犯し大鷲村妙姓寺を根拠地にしているという噂が立った、八月八日朝前橋藩の兵二一名が捜索の為やって来て成願寺
始め所々を尋ねて去った、昼過ぎ矢那方面から官軍の兵二百五十人がやって来て妙姓寺を囲んだ、この隊長が上総安房観察兼
知事の柴山文平(典)であった、これは軍事の監督指揮と行政の長も兼ねた、当時地方における最高の役柄であった。彼は上総安房
の幕府方の脱走兵を探索と討伐しつつ市原の牛久辺におったものの大鷲中島方面に脱走兵が屯しているという情報があったので 
急に本町目指してやって来たのである、妙姓寺は山の寺である、堂は木立の中に隠れ平素は尋ねて来る者もない裏山は法木山から
人見の妙見様まで東西に続く山脈で身を隠すには便利な場所である、矢那方面から山を越えて来た柴山典の軍は正面から鉄砲を撃ち
かけたが全く手応え無く静まりかえっている入ってしらべると全く人影もない、官軍の火付け役人が火を放つと、郡誌の記述によると 
<焰煙天に漲り地を舐め爆音銃声相和し荘厳なる仏字伽藍忽ち鳥有に帰し>とあるが義軍はもぬけの空であった。官軍は脱走兵の
逃げ方があまり素早かったので土地の者が内通したと疑った。
 小糸町史にはその後の出来事は勿論、激動時における数々の事件、出来事があるが、昨日までの日本の支配者、絶対者として日の
ように輝いていた将軍が、いまや国運循環して勝てば官軍負ければ賊軍の時となり、文明開化の荒波は否応なしに小糸にもおしよせて
来るのである。

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